りょーたろーの思考

思考停止にならないために…

おやじが死んだときの話

2012年10月18日… 父がこの世を去った。その時の模様と心境をTwitterに吐き出していたので、改めて一周忌ということで、まとめてエントリにしてみた。


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昨日おやじが逝ってしまいました。(T_T)

朝母親から連絡があり、僕が病院に駆けつけた時は既に喋ることができなくなっていた。連絡があってから5時間程たっていた昼下がりの午後。

僕が病院に着いて声をかけた時、微妙に頷いた感じはあったが所謂危篤という状態だ。ただの僕の勘違いかもしれない。

朝のうちはまだ喋っていたらしいが、自身は察していたのか、苦痛を紛らわす為か、仕切りに周囲に話しかけてたらしい。看護師が言っていた。

目は半開きで、ほぼ瞬きもしない。ハァハァと、息をするのがやっとな状態で、僕の存在を感じることができたのだろうか…定かではない。

朝のうちに個室に移され、親族が心配そうにかわるがわる声を掛ける。ドラマのワンシーンのそれ、さながらだった。デジャヴかよ。僕は役者じゃない。

延命措置はしない約束だった。まさに自分との戦い。

血圧の数値が下がって行く。上が70…60…50切った。息する声もなくなり、間隔が長くなっていく。息することさえも疲れてしまったような状態に、掛ける言葉も見つからない。

呼吸が、5秒間隔。次の息があるのか、5秒毎に心配になる。脈拍は50を切りそう。看護師曰く30切るとストンといくらしい。

僕が病院に着いてから2時間半後、次の息をすることが無くなった。しばらくして、脈拍も止まった。

先生が駆けつけ、呼びかけ、聴診器、ペンライト瞳孔チェック、頸動脈チェック。
ドラマかよ。

僕は自分が一番泣く可能性が少ないと勝手に思っていた。
不覚にも涙が溢れ、声も止まらなくなり、たまらず病室の外に出た。
周りはドンひいてたんじゃないかな。母親あたりが大泣きして僕がドン引くようなイメージだったんだが…

一通り泣いた頃、いとこのアニキが最後の言葉をかけろと呼びに来た。
なんも言えねぇ…そんな感じだった。
「ありがとう」「これからは、力強く生きて行きます」
そんなぐらいしか言えなかったし、思いつかなかった。
役者じゃねぇし。

これだけ涙が溢れるという感覚を受けたのは恐らくはじめてだと思う。
クソ忘れっぽい自分だが、父との懐かしい記憶は確実に刻まれていたらしい。

今でもいろいろ思い出すと涙がでてくるので、あまり思い出したくない、けど思い出にも浸りたい、けど思い出したくない、以下ループ そんな感じ。

死に目に立ち会うってことが、一体良かったのか、どうなのか、知らない方が幸せなのか。とにかく僕は30年前と変わらず泣き虫だったってことらしい。

程なく洗体のため、病室を後にすると、「搬送先は?」と看護師。
そんなもん知らない。葬儀屋の営業マンが自動的に来るもんかと思ってた僕たち遺族3名。

おばあちゃんの時世話になった葬儀屋をiPhoneでググってとりあえず…、てか、そこしか知らないのもありお願いする。

なるほど悲しみに浸る暇も無いってのはこの事か…

遺品となった病室の荷物を片付ける。前日の親父はしきりににテレビの設定を直してたらしい。
何がしたかったんだおやじ…

最近は天気が良かったのに、その日は雨が降ってなかなか止むことが無かった。悲しみの雨だね。たまには悪くない。

遺体搬送の車の中で、ステップワゴンを運転する葬儀屋さんと少し話した。電話一本で、見ず知らずの人の遺体を運んでくれる。不思議な感覚。

おやじが愛用してた、携帯電話を見てみると着信履歴はほとんどが母親からのもの。発信履歴は、ここ一ヶ月ほとんど無かった。

気付けばしばらく見舞いに行かないと来てた、お見舞い催促メールが、下半身不随になってからは僕のところにも全く来て無かった。
忙しいからと気遣っていたんだろうと思った。

病床にあった、手帳をチラ見した。闘病日記がメモ程度で残っていたが僕が来た日はそれが記録されていた。だんだん字が汚くなってきて、ここ一週間はもう記録が無かった。数ヶ月前まではびっしり書いてあったが、僕は辛くて読むことができなかった。

もっと見舞いに行くべきだったのかもしれない。おやじの気遣いに最後まで甘えてしまった。
お見舞いに行くことは、おやじのためでもあるが、それに行く自分のためでもあるのかもしれない。後悔しないために…。

晩飯にと母親が、ラーメンを作ってくれた。残り物のおでんに、おやじが自作したという柚子胡椒をつけて食べた。
なんとも言えないこの手作り感。美味いじゃん。

約10年ぶりに実家に泊まることにした。ここの風呂に入るのも10年ぶりだ。幼少期におやじと入ってた記憶がよみがえる。もっぱら土日が多かった。今はキレイなユニットバスにリフォームされたがサッシだけは当時のままだ。

一晩明けると雨上がりの快晴。少し冷え込んだ朝。まだ借りっ放しの介護ベッドの上で、朝から慌ただしく動く母親の足音で目が覚めた。7時過ぎ。

お寺の住職に親父の死を報告して、スケジュールの確認をとった。特段予定は無いらしくいつでもいいよと言ってくれた。戒名をつけてくれるらしい。

戒名には、レベルが5段階ぐらいあって、葬儀代とセットで結構いい値段する。ググって調べた。僕の生活レベルならば1本で、二ヶ月は生活できる。

ボーズ丸儲けって意味も理解できる。まぁ、聖職者なりの苦労もあるのだろうとも思う。

朝飯を食い終わる頃葬儀屋のブランナーが訪問してきた。それから打ち合わせに3時間を要し、日程と内容はほぼ決まった。それを、親戚じゅうに周知せねばならない。わかる範囲で手伝った。母親にはそれ以外の親戚と友人関係の連絡はしてもらった。

にしても、デカイ宿題を引き受けてしまった。親族代表あいさつ。母親が喪主だが、そういうのは苦手らしい。たまには親孝行してやりたいし、僕にはそういったことしかできないし。泣いてしまわないか少し不安だが、少しはシミュレーションできてた。

タバコはなかなか吸えなかった。おやじの死因は前立腺がんだったが、タバコがその原因だと母親は信じてやまなかったので、僕には会うたびにタバコを「禁煙しろ」と言われていたのだ。

そのため僕は近くの公園に散歩しながら吸っていた。
ただ、おやじが死んでからは、一度もタバコについて母親が触れることは無く、それがかえってなんか申し訳ない気分を増長させていた。

実家の近くを散歩すると、昔より街が小さく見えた。幼少期は、今よりも目線が数十センチ低かったからだろうか…
都心から電車で2時間弱の街だが、コンビニが無くなり、スーパーマーケットが無くなり、いっときに比べて、確実に衰退していた。人も減り子供も少なくなり、老人が増えた。

昼過ぎに静岡から駆けつけた兄貴が帰ってきた。家が遠い上にトラック仕事の彼は、おやじを看取ることができなかった。一番気を使い親孝行してたのが彼だったので、なんとか間に合って欲しかった。

昼メシは、母親、兄、弟、自分の4人で食べた。久しぶりのメンツでの食事。その後いろいろ準備したり、遺影の写真を探した。夕方に枕経をと早速住職が戒名を持って家に訪れた。夜は近所の蕎麦屋でそばを食ってから帰った。

その夜は、自分の家族がいる自宅へ戻る。僕をいつもの日常の気持ちに戻した。人が少なく静かで中途半端な田舎の実家と違い、都内の自宅への道のりは賑やかで、家に帰ると子供たちが元気でさらに賑やかだった。

自分の妻はいつもより少し優しかった。お礼代りに、一晩家を空けて溜まった愚痴みたいなたわいない話を聞いてあげた。

通夜のスケジュールが、会場の都合で一日ずれたので、中一日空いた。準備のために、朝一実家に行く予定が、寝坊気味で昼ごろ実家に着いた。
僕が遅れて着く頃には散らかってた実家が綺麗に掃除されてて、おやじの友人が挨拶に訪問しているところだった。

おやじが長年勤めた会社のOBの中でJR常磐線を利用してた沿線の住人たちで結成された、ゴルフサークルで名簿は30名くらいあった。おやじはリーダーをやっていたが、入院し、もう先が短いと察して、後任に預けたという一連の流れをその友人は語ってくれた。

サークルのなかでのおやじの様子も教えてくれた。遊びも全力だったらしい。仲間と楽しくやっているおやじが目に浮かび切なくなった。友人はとても残念そうに話してくれた。
ゴルフ好きにとって下半身不随は、相当堪えたに違いない。引き継がれた友人の方も言葉のかけようが無かっただろうに…

会社関係の連絡は任せてくれと、通夜葬儀には、50人は来るだろうとその友人は言っていた。退職して10年たつので、半信半疑であったがその組織力を噂には聞いていた。ただ任せてくれと言われれば、交友関係が僕たちにはわからない部分なので「任せます」の一択だった。

夕方に葬儀屋がドライアイスの交換に来てくれる。あと、遺影の写真を決めなければならない。写真は概ねきまった。昔よくあった証明写真みたいなのではなく、菜の花といっしょに笑っていて少しメルヘンチックな写真にしてあげた。

ドライアイスは、結構いい値段するが、ドライアイス自体はそんなにするはずもなく、つまり交換する行為自体に付加価値がある。誰でもできる仕事じゃないし大変だと思っていた。ホント見ず知らずの遺体にかかわってくれるのは不思議な感覚。

その日も夜は遅くなり地元のラーメン屋で食べて帰った。
明日は通夜になる。

通夜の朝、若干寝坊したが、納棺にはなんとか間に合った。親戚が既に集合してたが、あまり早く着き過ぎても待ち時間が多く子供もたちが騒ぎ出すのでこれはこれで良かったと思った。しばらくすると納棺士が、実家に訪れた。

納棺士は女性二人で、そのうち一人は見覚えがあった。数年前に祖母が亡くなった時にもやってくれた人でベテランな感じだった。もう一人は納棺士なのにキレイな人だった。AKBまゆゆと、内田有紀を足して割ったうえに、それに負けてない感じだった。僕は彼女のことを『美人すぎる納棺士』と勝手に名づけた。

子供たちには、初めての納棺式になったが少し刺激が強過ぎたのかもしれない。やはり結構怖がっていたようだ。親戚といっしょに棺桶に納めてあげた。納棺師のメイクのおかげでおやじは眠っているひとのようになった。

にしても美人すぎる納棺師だった。仕事上笑うことはしないが、こういう業界の人たちは、プライベートは、どんな感じなんだろうか…

棺桶が移棺されると、続いて僕たちも通夜の会場に向かった。開始まで時間があったので暇をもてあます子供たちの相手がたいへんだった。それでも来てくれた親戚やご近所さんの受付係、顔見知りの人に挨拶してたりしたらすぐに時間が過ぎた。

遺影の案としてあげたいくつかの写真が、もったいないので会場入口に、思い出コーナーを作って、ゴルフのクラブなどの愛用品、コルクボードに十数枚のおやじが中心に写っている写真をペタペタと貼り付けた。参列者の方には好評で、待ち時間に見てくれた。

写真選びは、比較的簡単にできた。おやじは撮る側にまわることが多かったため、そんなに枚数は残ってなかった。
僕の子供たちと、つまり孫と写っている写真が、多かった。気づけば孫は今のところ僕の子供しかいないんだから、当然と言えば当然なのかもしれない。

通夜が始まり、住職がお経を読んだ。今までは必ずと言っていいほど眠くなっていたが、いろんな思いを馳せながらのお経は、悪くない。眠くはならなかった。
焼香が始まるとおじぎを母親としてたため、それどころではないのもあった。

焼香は、たくさんの方が来てくれた。おやじの会社のOBネットワークはすざましく、土日またぎにもかかわらずその友人が言っていた予想以上の人が来てくれた。僕の会社の上司や同僚も、来てくれて嬉しかった。会場の席は溢れ外にも焼香の列ができたらしい。

ご近所さんも多く、田舎の町内会パワーというか、連携の強さを知った。まぁ、もう35年にもなるのだからそれなりに付き合いも深くなるのだろう。
返礼品を追加し、通夜ぶるまいも足りなくなったので、追加した。
祖母の時をかなり参考にしたが、だいぶ訳が違ったようだ。

通夜は無事終わり、親族みんなで通夜ぶるまいを食べた。明日の出欠を確認するため僕は落ち着かなかったが、なんとかやる事は終わった。その夜は親戚とあまり話はできなかった。

葬式の朝も天気は良かった。
やっぱり少し寝坊したが、集合時間には間に合った。
昨日より人も少なく気は楽だった。代表挨拶の時間を確認し話す構成を考えていたらお経も短く感じた。
挨拶の定型文をプランナーの人にもらったのでそれを小さな声で読んで暗記しようと思ったがダメだった。

棺桶に溢れんばかりの生花を敷き詰めたあと、蓋をした。母親は、窓を覗き込み最後の生のおやじの顔を目に焼き付けていたのだろう。いよいよ僕の出番が来た。緊張しなかったといえば強がりになるが、この状況でいつもよりは緊張しなかった。

結局、定型的な例文を読み上げて、途中、間におやじの生い立ちについてゆっくり、頭を整理しながら語らせてもらった。生まれ⇨幼少期⇨社会人⇨引退後⇨闘病中と、簡単にだがおやじから聞いていた話をした。
最初は問題無かったが、最期の1年の、闘病中のことを話そうとすると…

痩せ細ったものの気丈に振る舞う病室でのおやじの姿が目に浮かび、涙が溢れ、話すことができなくなった。それを必死に堪えながら、なんとか締めの定型文で挨拶を終えた。少し話が長かったかもしれない。妻にそう言われたが、どうでもよかった。体感的にはあっという間だった。

自分の思い出に酔っていた、と言われればそうかもしれない。どうでもいい、たまにはいいだろう、こんな時だし。
おやじの姉、つまり僕の叔母は僕のスピーチが良かったと言っていたらしい。人づてに聞いた。
叔母にも僕が小さい頃可愛がってもらった。何か恩返ししないといけない。

その後出棺して、火葬場に向かった。
もう遺体が燃えようが、物理的にどうなろうとあまり気にはならなかった。生き返ることは無いし、生き返っても見た目がゾンビじゃ困る。
思い出すと悲しくなり、思い出さないくらい何かに熱中してれば熱中するしかない、それだけの話だ。

住職がお経を少し読んで、棺桶はエレベーターに乗るかのように釜へ入っていった。
火葬場内にある本膳と呼ぶ食事会に親戚一同みんな向かった。
祖母の時と会場は同じで、メンバーはほとんど変わらなかった。なんか同窓会に似た気分だった。

本膳の献杯は、母親に頼んだが結局僕がやった。
その日は通夜の時に比べ、いろいろと親戚と話ができた。関係がわからない親戚にも、どんな関係だったか聞いたが、前にも聞いた気もした。
みんな優しく接してくれた。
食事の内容はたいしたことなく、値段が見えてるだけにボッタくられた感じがした。

一通り食事も済み、時間を持て余していると、程なく場内アナウンスがあり再び釜へ集まる。棺桶に納められた亡骸は熱をおびた遺骨に形を変えた。
右足の太腿の骨を自分の息子と一緒に骨壷に納めた。歳の割に長身だった親父の骨で骨壷はパンパンになった。

その後セレモニーホールへ戻って解散。僕とその家族も実家には寄らずそのまま家に帰った。

今までは、親父のお見舞いというやるべき事と、病院という行く場所があった。これからはそんな必要もやる事も行く場所も無くなった。ポッカリ穴が空いた感覚。
思えば都内から2時間ちょっとかけて故郷の親父が待つ病院へ行くお見舞いの道のりは、僕にとってはとても心地よい時間だった。それも無くなった。

クソ田舎にある、場末のリハビリ病院に転院が決まった時に、ここが親父の最期を過ごす場所になるのか…正直、僕はそう思った。
下半身不随、良くて現状維持、治る見込みの無い病にかける言葉もみつからなかったが、そんな状況の中で親父は何を思っていたのだろうか…

遺産は、特にもらうつもりはなかった。むしろ、返す予定の借金があった。
最後の見舞いに行った時に、病室でその話は出た。おやじはその割り振りを決めてくれていた。
そんなつもりは無いと言ったが、揉める元だしと、頼み込まれた。
それを強引に突っぱねる経済力も、信念も僕には無かった。なんか情けなかった。

「また来るよ」そう言って病室を後にするとき、僕の目に映った親父の姿が…最期のまともに生きていた親父の画だった。もう、また行くことも、必要も無くなってしまった。
こんなに凹み、悲しくなるのは自分でも予想外だった。人はいつかは死ぬと…わかっているつもりなだけだったようだ。

次の日、あんみつを買って実家に行き、親父に手向けた。ビールの方が良かったかな…
僕ら三兄弟と、母親とで事後処理をした。弔問カード、香典袋を整理してると、改めてたくさんの人にきてもらったことを感じた。僕の会社からも香典を出してくれた人がたくさんいた。

その日をもって、久しぶりに集まっていた僕たち親兄弟はまたしばらく解散する事となった。
それぞれ明日からはまた仕事に復帰する。会社に忌引はもっと取れるよと言ってもらっていたが、実家には母親と弟もいるしこれ以上僕が休んでも、ただサボっているだけになってしまうだろうし。

親父が死のうが、僕が忌引を取ろうが、世の中は回るし進み続ける。空いた穴は埋まっていく。
また、いつもの日常に戻る。誰かが死んで、誰かが生まれる。悲しみに浸る時間は無かったと言えば無かったし、あったと言えばあった。
自分にしかできない事は何か?どうやら前に進むしかなさそうだ。

日に日に暑さは無くなり、寒い朝が多くなってきた。今年の冬は寒くなりそうだ…
これらが、僕の2012年秋の出来事だった。
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早いものでもう1年経ってしまった。
一周忌は無事終わり、徐々に消化しつつあるわけではあるが、実家に帰るとまだ遺品やらなにやら残っている。そういう空間に継続して生活しているといろいろと思い出すことも多いと思う。
オレは実家を出てしまったので、たまに実家に帰った時に懐かしむのはとても心地よい感覚として受け止めているんだけど、やっぱり一年前の今日を振り返ると、親愛なるおやじが死んだことは本当に悲しいことでした。

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